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融神社

tooru shrine

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御祭神・由来

御祭神

源融 みなもとのとおる

大原の全子 おおはらのぜんし

大山咋日の神 おおやまくいのかみ

由来
人皇第五十二代嵯峨天皇の第十二皇子、
源融(みなもとのとおる)をお祀りする神社です。
(懸仏 源融の肖像)
源融は天皇の子でありながら源氏姓を賜り皇族の身分を離れ、
宮中での政治に参与して左大臣まで昇りつめます。
源融の事跡や人物像が、源氏物語や光源氏と重なり、
紫式部は源融を光源氏のモデルとして源氏物語を作られたとされます。
この地は源融の荘園で、
現在の社地は源融が宇多天皇の寛平年間(889~898年)に
南庄村牟禮の岡山に閑居された旧跡で、
後世の為に鏡一面を山上に埋められました。
朱雀天皇の天慶八年(945年)に、
伊香立の庄の管領平郡三河公懐昌が土中よりその神鏡を掘り出し、
その旧地に祠を建て鏡一面を御神璽(しんじ)として、
源融を祀られた事が融神社の創始です。
寛和二年(986年)に、花山法皇の近江巡幸の折に社殿を造営され、
正一位融大明神と崇称(すうしょう)されました。
一条天皇の永延二年(988年)に南庄の水田百町歩を神領とされ、
これを初めとして歴代天皇奉幣の例がありましたが、
鎌倉時代以後、次第に衰微し遂に廃絶となり、
その後、南庄、谷口、家田の三村の産土神となりました。
元亀二年(1571年)に信長の延暦寺焼討ちにあい、
社殿その他焼亡しました。
当時の神職山本若狭が神璽を奉持して山間に避難したことで守られ、
天正七年(1579年)に至り社殿を再興し神璽を奉還され、
後世この神領は武家の所領となりました。
寛政八年(1796年)に社殿火災にあい、
勅書、神宝などを焼失し、
同九年(1797年)に社殿及び末社など再造園され現在に至っています。
嵯峨の清凉寺、宇治の平等院などは源融の別荘でもありました。
(資料提供:融神社、大津市歴史博物館)
主な祭典・行事

春祭り(4月29日)

御朱印
その他
【小倉百人一首 河原左大臣】

源融は小倉百人一首(十四番目)
「みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに
みだれそめにし われならなくに」
の詠み人河原左大臣でもあります。
現代語に訳すと
「東北地方の太平洋側、
現在の福島県信夫(しのぶ)地方で作られていた擦り衣の乱れ模様のように、
私の心も乱れています。
いったい誰のせいでしょうか。
私のせいではないのに。」

【源氏物語誕生の地 大津】
今や世界中で愛される日本古典文学の最高傑作『源氏物語』。
紫式部は石山寺からびわ湖に映る月を見て、
世界最古の長編小説『源氏物語』を書き始めたと伝わっています。
千年のときを超え紫式部と心つながる旅へいま出かけませんか。
(資料提供:びわ湖大津観光協会)

1.石山寺

本堂には紫式部が筆を執ったとされる「源氏の間」があります
石山寺1-1-1

2.逢坂の関

石山詣に向かう光源氏が、若き日に契りを交わした空蝉と再会する舞台
大谷町22

3.びわ湖(打出浜)

逢坂の関を越えた貴族が船で石山寺へ向かった出発の地とされています
打出浜

4.園城寺(三井寺)

紫式部の死後、父の為時は三井寺で出家し、娘をしのぶ日々を送ったと言われています
園城寺町246

5.比叡山延暦寺

「夕顔」の巻では法華堂が、「夢の浮橋」の巻では根本中堂が舞台
坂本本町4220

6.慈眼寺

紫式部、清少納言、和泉式部(いずみしきぶ)ら平安時代の女流文学者の供養塔がのこる
坂本4-6-1

7.日吉大社

光源氏が恋焦がれる藤壺の中宮が出家の決意を表明する重要な場面
坂本5-1-1

8.浮御堂

<横川の僧都>のモデルとされる源信がびわ湖上の安全と人々の救済を願い建立したとされます。
本堅田1-16-18

9.唐崎神社

光源氏の家来の娘が唐崎で祓を受けた記述があり、当時の貴族から「祓いの聖地」として認識されていたようです
唐崎1-7-1

10.融神社

静寂の境内には源融を祀る本殿と、母である大原全子を祀る脇殿に加えて、拝殿と11の社があります
伊香立南庄町1846

上記内容は掲載時のものです。詳しくは神社へお問い合わせ下さい。

お問い合わせ先

住所

滋賀県大津市伊香立南庄町牟禮の岡山1846

電話

なし

ホームページ

なし