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十二相神社

juunisou shrine

御祭神・由来

御祭神

少彦名命 すくなひこなのみこと

榾神 ほたがみ

御神徳

医薬 病気平癒 酒造繁栄 五穀豊穣 産業興産

吉兆の前触れ 村守り 木の神

由来

多賀の歴史は佐目の「縄文土器」から始まります。
「佐目一眼の童子」から佐目という村名になり、
古代豪族和氣氏出身の「佐目氏」が奈良時代には存在していました。
熊野につながる山岳修験の地であり、
平安中期の僧、空也上人の伝承が古文書から見つかっています。

岐阜県海津市南濃町志津の十二相神社に「1390年佐目より天神七代地神五代の十二柱神勧請」とあります。
江戸時代は「十二相権現社」と言われていました。
明治維新の神仏分離令により、権現の神号や修験道は廃され、祭神のみが残されたという。
十二社と書き「じゅうにそう」と読む神社もあり、
文明二年(1470年)小川十平に再興された南濃町十二相神社は「十二社大権現社」とあります。
多賀には修験者・役行者の伝説や権現谷という地名も残っている事から、
神仏習合であったと考えて問題ないと思われます。

由来の十二柱(天神七代・地神五代)の神様の中に、
御祭神の「少彦名命」も一緒に国づくりをした「大国主命」もおられません。
六角高頼に関わりのある沙沙貴神社の御祭神が少彦名命であり、
十二相神社の御祭神はそのご縁によるものと思われます。

榾神様は木津川から連れ帰った木の神様です。
南後谷の人が大和の木津川で榾(たきぎ)が足に絡まり、
「性あるものならば肩へあがれ」と言うと肩へ乗り移られたので郷里に持ち帰り、
「佐目の神社に祀って欲しいと」言われ合祀したという伝承があります。
佐目の村名は製鉄に関係し、
エネルギー資源、生活の糧として何より大切な信心の対象だったのでは、と考えられています。

十二相神社の御祭神はそのご縁によるものと思われますが、
様々な資料をもとに調査が行われています。

御朱印

なし 

その他
【十二の灯火】

夕暮れになると、写真のように「十二の灯火」と村の古老が呼ぶ明かりが点灯します。
木製の台座に電灯が12個ついており、戦後しばらくして作られたらしい。
十二柱の権現様を表す、もしくはお祀りしていた事を唯一語り継ぐものではないかと思われます。

【明智十兵衛光秀 謎多きルーツに迫る 多賀出身説】
令和時代の滋賀は、「戦国」が面白い 戦国ワンダーランド滋賀・びわ湖

「淡海温故録」と、500年密かに伝えられた「口伝」により、明智十兵衛秀光ゆかりの地・多賀として近年明らかになる。
(P2 バス・大型車駐車可)

・明智光秀出身地?その1「淡海温故録(おうみおんころく)」

近江国(滋賀県)の地誌で、貞享年間(1684~1688年)に成立して彦根井伊家に献上されたと考えられる書物。
犬上郡佐目(佐目)の項目には『佐目に明智十左衛門が住んでいたという。
明智は本国美濃の者で土岐成頼に属していたが、後に成頼に背いて浪人して近江国に来た。
近江守護大名の六角高頼を頼ったところ扶助米を与えられ、二~三代もの間佐目に居住したという。』とある。
(8冊のうち三乾(第5冊)をもとに要約)

・明智光秀出身地?その2「見津五人衆(けんつごにんしゅう)」
伝説では明智光秀が佐目にいて、しばらくこの地に隠れ、五人衆が守っていたという。
秀光の「みつ」から名字を頂き、恐れ多いので「見津」と書いて「けんつ」と読んだと口伝がある一族が、現在も神社周辺に住んでいます。

・明智光秀出身地?その3「十兵衛屋敷跡」

見津(けんつ)家では「柿木が目印となる場所に十兵衛屋敷があった」という言い伝えがあります。

・明智光秀出身地?その4「神さん池」

見津(けんつ)家では「神さん池の水を使う時には、光秀さんに感謝しろ」という言い伝えがあります。

詳しくは佐目地区の販売所や多賀観光案内所にお問合せください。
案内冊子は各種販売所、通信販売 (公式HP)でお買い求めいただけます。


上記内容は掲載時のものです。

お問い合わせ先

住所

滋賀県犬上郡多賀町佐目472

電話

なし

ホームページ

http://same-jubei.com/