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八幡神社

hachiman shrine

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御祭神・由来

御祭神

應神天皇 おうじんてんのう

吉備津彦命 きびつひこのみこと

蛭子命 えびすのみこと

由来

八幡神社は室町幕府の十二代将軍・足利義晴の時代にあたる
天文三年(1534年)3月に創建されたと伝わりますが、
文明八年(1476年)観音寺本堂建立にあたって記された、
同年3月の奉加帳に社名があることから、
八幡神社の創建は社伝の天文年間より以前であることは確実で、
応永年間(1394~1428年)に石清水八幡宮領と設定されたことにより
鎮守として祀られたと考えられます。
明治27年(1894年)に現在の場所に移転(旧社は現在の朝日会議所の所)すると同時に、
薬師堂が八幡神社境内の拝殿右側に移転しました。
昭和2年(1927年)8月2日に吉備神社と蛭子神社を合祀し
朝日の総社としました。

主な祭典・行事
秋祭り(10月第一日曜)





10月第一日曜日に朝日八幡神社秋季祭典が行われます。
実りの秋の時節、
五穀豊穣をもたらす大自然への畏敬感謝と
朝日区民の健康長寿および暮らしの安寧を願い、
氏神様への雨乞いの返礼として
豊年太鼓踊り奉納と一体となって実施されています。
踊り手は昼過ぎに朝日会議所を出発し
八幡神社をめざします。
沿道や神社境内では大勢の区民の声援が華を添えます。
御朱印

なし

その他
【朝日豊年太鼓踊】
 

朝日豊年太鼓踊は昭和49年(1974年)12月4日に 国選択無形民俗文化財に指定され、
平成27年(2015年)4月24日に 「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産-」の構成文化財の一つ
「朝日豊年太鼓踊および伊吹山麓の太鼓踊と奉納神社」として認定されました。
太鼓踊りは雨乞いとその返礼の踊りとして行われてきました。
米原市には多くの地域で太鼓踊が行われていましたが、
昭和22年(1947年)以降は踊られなくなっていくなか、
朝日だけが途絶えることなく現在まで伝承されてきました。
(昭和30年代)
その後、数か所の地域で太鼓踊は復活しています。
太鼓踊の由来は、伝説によると白雉年間(650~654年)に
大原の郷の氏神である岡神社が建てられた時に始まったとされたり、
羽柴秀吉が賤ケ岳の合戦で勝利した時、
陣鉦や陣太鼓を打ち鳴らすと大雨が降ったので、
これにちなんで雨乞い踊りに太鼓や鉦を用いるようになったとも言われています。
踊りの衣装は、地頭であった大原判官の出陣の行装を模したものと言われますが、
いずれも根拠となる資料もない伝え話です。
大原の「雨乞い」が記録上で初めて現れるのは延宝五年(1677年)で、
その後も干ばつがあるたびに雨乞いが行われた記録が残っており、
少なくとも江戸時代前期から中期には
雨乞いとそれにともなう太鼓踊りが行われていたと考えられます。
伝統文化として残る朝日豊年太鼓踊は、

昭和48年(1973年)大河ドラマ「国盗り物語」に出演、

昭和50年(1975年)第26回全国植樹祭では
天皇皇后両陛下が旧山東町へお立ち寄りの際にご高覧、

昭和56年(1981年)第36回国民体育大会(びわこ国体)・第17回全国身体障害者スポーツ大会(びわこ大会)開会式前の郷土紹介で披露、

多賀大社御田植祭で踊りを奉納されるなど、
朝日地区以外でも活躍されています。
(資料提供:朝日自治会)

【三献の茶(観音寺)】

八幡神社から北へ700m先の観音寺は、
佐吉(石田三成)と長浜城主・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の出会いの地とされています。

鷹狩りで喉が渇いた秀吉が寺に着いてお茶を所望します。
寺の小僧だった光成は、
一杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を差し出し、
秀吉は一気に飲み干してもう一服所望します。
二杯目は中くらいの茶碗でやや熱めのお茶を差し出し、
秀吉は飲み干してもう一服命じます。
三杯目は高価な小さい茶碗で熱いお茶を差し出します。
その気配りに感心した秀吉は三成を長浜城へ連れて帰り、
三成は出世の糸口を作ったという話が伝えられており、
お茶の水を汲んだとされる古井戸も残っています。

上記内容は掲載時のものです。詳しくは神社へお問い合わせ下さい。

お問い合わせ先

住所

滋賀県米原市朝日1472

電話

なし

ホームページ

なし